【 会員の随筆 】 |
今回は山城高校第5回卒業 |
|||
狐野さんは現在、北海道の伊達市にお住まいで、お寺の僧侶をされています。 |
〔掲載順〕 | 〔掲載日〕 | 〔卒業年〕 | 〔卒業回数〕 | 〔 氏 名 〕 | 〔タ イ ト ル 〕 |
---|
第 1 回 | 2009.1.1 | S28年 | 山城高5回 | |
山城高校校歌 歌い初めの日 |
---|
山城高校校歌 歌い初めの日 | |||||
---|---|---|---|---|---|
昭和25(1950)年、憧れの山城高校に入学し、1年先輩の S さん(後に阪急バスのガイド)の誘いで、合唱団(YGC)に入部した。正式には合唱団であったと思う。その年の夏、野球部は地区予選を見事に勝ち進み甲子園への出場を果たした。当時地区予選は衣笠球場で行われることが多かったが、優勝戦は西京極であったと思う。合唱団は毎回試合のたびに応援に行き、勝つたびに校歌(?)を歌ったものだった。?を付けているのは実は、その時、まだ校歌がなく、京三中の校歌の“おお、三中”の箇所を“おお、山高”と変えて歌ったのであった。こんな末尾のみの‘替え歌’を提唱し、みんなを指導したのは2年生の H 先輩であったと思う。お蔭で私は京三中の歌が今も歌える。 秋になり、何月何日か定かではないが、あの木造の旧校舎の音楽室で練習していると、部員の誰かが、顧問の Y 先生が、速達を手にし、急いで教室に駆け込み、「校歌が出来たぞ!!」という意味の言葉を叫んだ。誰かが歌詞を黒板に書きはじめた。 Y 先生がピアノを弾き、コンダクタ−の A 氏が棒を振り、部長の N 氏、先ほどの H 氏、2年生の K 氏(この方は後に大谷楽苑−−東本願寺の合唱団−−で歌っておられた)、美人で同年の I さん U さん(二人とも故人)、帰り道一緒だった O さんなど、みんなでピアノを取り囲んで何度も歌った。この日こそ実に記念すべき山城高校校歌歌い初めの日であった。 |
|||||
京三中 校歌 大塚 五郎 作詞 信時 潔 作曲 1.朝に仰ぐ秀嶺愛宕 夕に掬ぶ清流桂 山河自然の霊気を享けて 集ふ双陵健児一千 おお三中その名ぞ 我らが誇り 2.誠実天の聖火とかかげ 剛健地の威徳とたたへ 崇文尚武ただ一途に 競ふ姿の雄々しさ見よや おお三中その名ぞ 我らまもり 3.進取不断の光と恃み 協同不壊の翼と張りて 若き生命の日に新しく 理想の空ゆく羽音を聴けや おお三中その名ぞ 我らが力 4.歴史はにほふ古き都に 繚乱誇る桜の徽章 護りてとはに祖国の幸を 拓かん我らが大なる使命 おお三中その名ぞ 我らがいのち |
|||||
この日と前後して、我ら合唱団は毎日新聞日本学生音楽コンク−ル 関西の部で第2位となった。大阪の毎日新聞ホ−ルに歌いに行った。 関学、山城、京女の順で賞に入った。公立では1位である。課題曲に ついで、自由曲はドボルザ−ク作曲『新世界より』第2楽章からの“ Going Home”(邦題だったかも)であった。コンク−ル直前の日まで、 毎日放課後、練習のたびごとに曲想をつかむためにと、そのレコ−ド を聴き、後は合唱の特訓を受けたものだった。 私は家庭の事情で、残念ながらこのあと、合唱団を退部しなければ ならなかった。わずか半年だけの部員であった。 |
山城高 校歌 竹友 藻風 作詞 中瀬古 和 作曲 1.双ケ丘に鐘なりて 流れさやけき桂川 御室のさくら咲き匂ふ 学びの家のたふとさよ 正義 真実 責任の 命みなぎるわれら山城 2.愛宕の峰に雲晴れて 日かげさしそふ西の京 嵯峨野をわたる風清き 学びの園のめでたさよ 平和 協力 友愛の 光あまねきわれら山城 |
|||
---|---|---|---|---|
![]() |
![]() |
翌々年の夏、昭和27(1952)年、野球部は地区予選で再度優勝を果たして甲子園に出場した。地区予選では本当の校歌が歌われたに違いない。 我が山城高等学校々歌は周知のように、竹友藻風先生作詞、中瀬古和先生作曲である。このことについては『京三中・山城高、同窓会創立百年記念誌』に山城6回・野村透氏が詳しく書いておられる。それまで、私は中瀬古先生が女性であることを実は知らなかったのである。YGCの楽譜はさみを今も持っている。金色の校章のついた群青色の青い表紙である。みんな輝いていた、あのボロの音楽室が忘れられない。 |
|||
---|---|---|---|---|
有珠山噴火を2度味わった。今夏、洞爺湖サッミットで賑わ った洞爺湖町は私の住む伊達市のとなり町である。私は現 在、伊達市の真宗寺院に身を置き、僧侶となっている。 |
![]() |
---|
平成20年12月吉日 | 山城高5回卒 |
---|