【 会員の随筆 】
          
 今回は京三中第38回ご卒業の森 克巳さんに登場願いました。
昭和21年頃の三中生の文芸活動(詩歌班・文芸班、同人誌)を回想していただきました。

    

〔掲載順〕 〔掲載日〕 〔卒業年〕 〔卒業回数〕   〔 氏 名 〕       〔タ イ ト ル 〕
第 4 回 2018.9.3 S28年 京三中38回  森 克巳 昭和21年の三中文芸活動のこと


 
  昭和21年の三中文芸活動のこと  
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※ 図 1 


京三中詩歌班機関誌
(「白堊」三号表紙・目次)
 昭和20年8月、終戦によってほぼ1年ぶりに動員先の半田中島飛行機製作所から帰京して学校へ戻った。70余年前のことである。

 動員中の寮生活、東海大地震、工場大空襲等のことの記録は数多く残されている。しかし、戦後の混乱した学校生活についてはほとんど語られることなく過ぎてきたように思う。

 明治憲法下、教育勅語に象徴される神国日本、天皇制そして軍国主義を基とした教育はすべて崩壊し、GHQの指導のもと新憲法の発布の年であった。疲弊した国力によってもたらされる国民生活は困窮を極めていた。

 こうした学校や生活環境の中にあって私たちは若かった。漠然とした不安感は否めないにしても燃え盛る情熱はあったと思う。

 食に飢えていたが、文芸にも飢えていたのである。それが運動や文芸活動に結びついたのであろう。

 
 私は学徒動員中から父の影響で斎藤茂吉の短歌に親しみ、次第に万葉集の世界に接し日本古代を理解しようとしていた。同時に作歌にも励んでいた。戦後、近くに住む同級の安藤一郎君と交流を深め、ようやく復刊した文芸誌や新聞小説などで織田作之助、太宰治らの作品に触れ、文芸の世界に憧れをもっていた(安藤君は後に東京の女子大学の教授のかたわら児童文学作品の著書を残している)。この頃、同級生の間に俳句を作る人たちが互いに作品を批評し合って楽しんでいた。しかし、グループとして集まることもなく、しかし、発表の場を求めていたように思われる。

他方、先生方の中にも趣味で俳句や詩などを作られる先生がおられた。生徒と先生との間に、どのようないきさつで作品の発表の場をもつことになったのかは、私にはわからないが、ただ手元に残っている3部の作品集から何となくその空気を察することが出来る。

 京三中詩歌班機関紙「白堊」が第1号から第3号=図1=までと、三中文芸班と銘打った「青空」第2号=図2=の3部である。この青空第2号は白堊第2号との合併となっている。この2号の発行は投稿者の学年から昭和21年4月以降であることが推定出来る。また青空2号の発行は昭和2112月と記されている。

 当時は自由に使える紙がなかなか手に入らず苦労したことがあとがきに書かれている。紙質も悪いのだろう、発行から70年もたてばやむをえないのかもしれないが、薄茶色に変色して読みづらい。印刷はガリ版刷りで編集された先生が自ら刻み刷られたのであろう。サイズは白堊は17×24p、青空は12×14pである。白堊1号は6頁、3号は11頁、青空は54頁の構成である。

 この3部の作品集を通覧すると、作品のジャンル別にそれぞれ担当の先生がおられたことがわかる。それぞれの作品の批評および総評が記されている。

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 ※ 図 2


京三中文芸班機関誌
(「青空」第2号表紙・目次)
 
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 ※ 図 3


京三中文芸作品集
(「時計台」第1号表紙)

 創作、随筆、詩は竹岡先生が、世良先生と鬼武先生が短歌を、鳥越先生が俳句を担当されている。作品には先生方の作品もあるが、ほとんどは生徒で5年生が大部を占めているが、4年生の作品もある。作品としては俳句が多いが、恐らく心情表現として取り組みやすいからであろうか。

 先生方の批評を読むと指導的であり、次作への期待を書き添える温かいものである。

 私もそれぞれの作品集に短歌を投稿しているが、班活動のような組織的な活動があったようには思えないし記憶にもない。昭和22年3月に卒業して以来も文芸班、詩歌班との交流は全くない。先生方の異動もあったろうし、生徒の自発的な活動もなかったのであろう。恐らく自然消滅ということになったのではなかろうか。

 

 私の三中時代の記憶を飾るものの一つに文芸作品集「時計台」の発行がある。これは同学年の友人11人が集まって作った同人誌である=図3、4=。

 あとがきで同人の一海知義君は「薔薇色の曙光を浴びて天空高く聳えたつ時計台、つゝむ若葉にそよ風が薫る。若人の熱情を吐露すべく同人相集い……」と述べている。体裁は70頁の活版印刷で内容は図4に示す如く文芸誌である。編集は私で発行者は横田二郎となっている。発行は昭和211120日。

 それから70年もたった今、当時は苦労とも感じなかった仕事が懐かしく思い出される。今思えば若気にはやった暴走としか思えないようなことをやったのだから。

 資金もスポンサーもなく唯一の収入は広告料のみであった。つてを頼りに横田君と2人で広告の掲載を頼んで歩いた。事業者の対応は温かかった。また友人や先輩のつてを頼って有名人の作品原稿をいただいた。そして仲間たちの作品とともに編集をし、印刷屋に渡した。この印刷屋にも感謝する。何よりも一介の中学生を相手に引き受けてくれたものである。しかし、当然赤字である。後にこれを埋めてくれたのは私の父である。

 こうして「時計台」は出来上がった。非売品ではあるが、本屋の店頭に置いてもらったり女学校に出向いて配布したりした。

 第2集の発行も考えて、投稿を求めて数名の方の作品が来たが、残念ながら発行に至らなかった。

 同人11人のうち現存するのは新田、横田と私の3人である。亡き友のうち文学の方向に進んだ友は少ないが、皆それぞれの人生を全うしたものと思う。「時計台」はその人生の一頁を飾る青春の讃歌であったであろうと思う。

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 ※ 図 4


京三中文芸作品集
(「時計台」第1号目次) 
 
  平成30年9月吉日    
        京三中第38
           森 克巳
 
 

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